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2006年1月25日午後11時15分

家族に見守られる中、母親は永久の眠りについた。享年64歳。
発病した時から覚悟はしていたものの、知る人ぞ知るマザコンの私にとっては、まだまだ早すぎるお別れだった。。
「早くオウチに帰りたいよぉ・・・」

それが、私が母親と交わした最後の会話だった・・・消えそうなか細い母親の声が耳から離れない。
この時既に『母親の帰宅』が『死』を意味する事が分かっていたにも関わらず、私は「オウチでは点滴できないし、もうちょっと元気になってから帰ろうね」としか云えなかった・・・何故なら母親自身がよく分かっていた事で、嘘でも「じゃあ、明日帰ろうね」と云ってしまえば現実になってしまいそうだったから。。
しかし、私の大きな願いと小さな反発心は無情にも打ちのめされた。翌晩が母親とのお別れの時だったのだ・・・思えば、母親の言葉は明日旅立つ事を知っての事だったのかも知れない。

気が付けば夜も更けきった時間だったで、病院の配慮により「朝まで病室を使ってもかまわない」との事であったが、私たちは少しでも早く自宅に連れ帰ってあげれる様に手配した・・・母親が帰宅した時、午前3時を回っていただろう。

母親の最期は実に穏やかなものだった。癌による痛みは早くにコントロールできていたし、ありきたりな台詞ではあるが『眠るように』旅立った。帰宅した母親は「今にも目を覚ますのではないか?」と思うほど綺麗だった・・・冷たくなった頬に触れても冷たい理由が理解できない程。

母親の死をゆっくり受け入れる間もなく、時は目まぐるしく進んでいった。
通夜・葬式の準備に始まって、そして火葬、、、
父親は母親の遺骨を見て「これで気持ちの整理がついた」と云ったのだが、私はバカなのかピンとこなかった。
遺骨は母親そのもので、頭の天辺から足の爪先まで見ても母親に間違いはなかったが、長い夢でも見ているかの様だった。私は、棺に入れた赤いカサブランカが母親の遺骨をほんのりピンクに染めているのを見て、ただ「キレイ・・・」と呟いた。
初めての経験がそうさせたのかも知れないが、私の無意識の意識が否定したがっていたのかも知れない。何故なら、今これを書いている時点でもヒョイと『卵ある?』なんてメールが来るんじゃないかと思ってしまうのだから・・・。

しかしながら、悔いは無い。そりゃ欲は計り知れないほどあったが、母親と過ごした1ヵ月は母親からの最後の贈り物だったと思う。時には「スイカ食べたい!今すぐ買ってきて!」と百貨店に走らされた事もあったが、それもまた良い思い出だ。
母よ、ありがとう!後50年以上先かも知れないが、必ずあの世で会おう。そして来世でも再び貴女の子どもに生まれたいです。貴女が嫌と云っても生まれてやる!(笑)


余談だが、病院に泊り込んで付き添った10日あまりの経験は最大の課外授業だったと思う。中でも最も考えさせられた事は『延命治療』について。

「チューブや機械を付けられてまで生きたくない」

それは母親が健康だった頃からの口癖だった。それには私も同意していたし『母親が望む事』と思って、延命治療拒否の方針へとなった時は「それでエエんちゃう」と云っていたのだが、自発呼吸が困難になるにつれ「一生寝たままでも良いから生きてて欲しい!」と思った。「何故、母親は最期に過酷な試練を与えたのだろう?」とさえ思ってしまったかも・・・。

いつでも自分は二の次だった人なので、最期ぐらいは我が侭を云いたかったのかも知れない。しかし、私が最期を迎える時は残された者に委ねてみようかと思った・・・そう思うのは今だけかも知れないが、、、


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